今日は、地元「島原の乱」を勉強しました!

 
 
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1616年、島原の藩主、松倉重政。彼のキリシタン弾圧は俊烈を極めた。島原半島のほぼ中央に位置する雲仙。そこには熱温泉が音をたてて煮えたぎっている。その熱湯を受刑者に掛け、気絶すると蘇生させることを繰り返した。

 島原の乱の勃発以前の寛永10年ごろには、少なくとも表面上キリシタンは存在しなくなっていた。しかし、松倉重政とその子勝家の権力者としての刃は、キリシタンに止まらず、領民全てに向けられていた。「搾れるだけ搾る」というのが、松倉親子のモットーだったらしい。

 米を年貢として納める通常の税のほか、家に戸口を一つ作れば、戸口銭(ぜに)、窓を作れば窓銭、棚を作れば棚銭、室内に火を焚くところを作ると囲炉裏銭というのがあった。さらに人が死に穴を掘って埋めれば穴銭、人が生まれると頭銭。ナスを作っても、何個かは税金として持っていかれたという。重政が死に、子の勝家が家督を相続してから4年ほど経ったころ、気候が不順となり、凶作が続くようになる。拷問の対象は、年貢を納められない農民となっていく。
 
 
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                            (原城・本丸跡)


 島原半島口之津村(現在の口之津町)。ここの大百姓の嫁が、年貢を収められずに捕らえられた。身を切る冷たい川の水につけられ、臨月の体だった嫁は、6日目に水中で子を産み落とし、そのまま母子ともに死んでしまう。寛永14年10月下旬、有馬でキリシタンの集会が行われた。代官の林兵左衛門はこれを怪しんでどなりこみ、逆に殺されてしまう。それが発端だった。その翌日には、島原の農民たちは団結して島原城に攻めにいく。このとき、天草でも挙兵。本渡で激戦の末、天草番代三宅藤兵衛を討ち死にさせる。
 
 
 
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(本丸の外側は、眼下に海が! 当時は、幕府軍の要請でオランダ海軍の軍艦が海からは、艦砲射撃で攻め立てたそうです・・・)

 続いて富岡城(現在の天草郡苓北町)を攻撃。しかし、島原城富岡城も容易には落とせない。後退する一揆軍を、東から細川勢が、北からは鍋島勢が、そして南から島津勢が、じわじわと迫ってくる。1637年12月、一揆軍は食料や武器をかき集め原城を目指した。

 籠城である。一揆勢、島原・天草軍合わせて2万8千(3万7千)余り。対する幕府・各藩の包囲軍12万余り。明けて寛永15(1638)年元日、幕府軍総攻撃。功を焦り、討ち死にした幕府軍総大将板倉重昌の後を受けたのが、松平信綱。彼は、待った。一揆軍の食料が尽き、弾薬がなくなるのを。

 2月28日。唐津藩兵を押し退け二ノ丸から本丸へ。槍の名手と知られる又兵衛は縦横に槍をふるって向かうところ敵なしだった。この戦いで、原城一揆軍は、女も子どもも、ことごとく殺されてしまった。幕府に内通していた南蛮絵師1人を除いては。一揆軍の総大将天草四郎をはじめ戦闘員1万人は、獄門―つまり、首を原城にさらされた。1万の首が並んだ様は、まさしく地獄絵だったろう。
 
 
 
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                         (天草四郎・時貞の墓碑)


乱の最中、一揆勢から放たれた矢文に記された言葉だったろう。「天地同根萬物一体一切の衆生貴賤を撰ばず」。人は皆平等だと主張する。乱の後、幕府は、キリシタンの怖さを宣伝し、キリシタン禁制と鎖国を強く押し進め、幕藩体制をゆるぎないものにしていく。逆にいえば、キリシタンの脅威という「仮想敵」によって支配者側の結束は強まり、中央集権化は進んだことになる。島原の乱の「戦後処理」は、小倉で行われた。小倉藩側の記録によれば、一揆軍の総大将天草四郎時貞の首は、小倉でさらされたとある。
 
 
 
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                         (島原の乱の供養碑・首塚
 
 
最後に原城跡を下ると南有馬漁港がありますが、この漁港入口に神社がありましてその境内にあります・・・
娘のはづきと岬に戦で亡くなった人が、安らかに眠っているから・・・と説明してお参りしてきました。